中国 -100年遅れの帝国主義-

現代中国の本質と国際的影響を歴史的背景から読み解く、批判的視点の国際政治ブログ

「国恥を忘れるな!」の先に未来はあるか──中国が歴史を消費する理由

 


はじめに

中国で公開された映画『731』が記録的な大ヒットを飛ばしている。旧日本軍による生体実験を描いたこの作品は、公開わずか11時間で興行収入62億円を突破。北京の映画館では上映後に観客が五星紅旗を振りながら「国恥を忘れるな!」と唱和する光景まで広がった。

中国メディアはこれを「歴史と戦争への省察を呼び起こした」と持ち上げ、監督は上映会で「映画は歴史的証拠になり、劇場は正義の法廷になる」と発言したと報じられた。

news.yahoo.co.jp

だが、ここにこそ中国的な“おかしさ”が滲み出ている。フィクション作品を「歴史的証拠」として扱う──そのこと自体が、学術的検証や史料批判ではなく、感情と演出を優先させる中国流の歴史観を象徴している。

反日から「嫌日」へ

ただ、この映画ブームを単なる愛国パフォーマンスとして笑って済ませることはできない。そこには、はっきりとした危険な変質がある。

従来の中国映画が煽ってきたのは「抗日」「反日」という歴史的ナラティブに基づく感情だった。だが最近はそれを超えて、「日本人そのものを標的とする感情=嫌日」が強まっている。

実際、今年7月には江蘇省で日本人女性が子ども連れのまま投石を受け、昨年は深圳で登校中の日本人小学生が中国人の凶行で命を落とした。こうした事件は偶発ではなく、社会全体に醸成された「日本人への敵意」が現実の暴力へと転化した結果と見るべきだ。

つまり、スクリーン上の「抗日」が大衆の感情を煽り、それが街頭での攻撃となって噴き出している。
中国はもはや「歴史を巡って日本を批判する国」ではなく、「現実の日本人が日常的に危険にさらされる国」へと変質しつつある。

経済低迷と感情の動員

この背景には、中国経済の停滞もある。若年層失業率の上昇、不動産市場の崩壊、輸出の減速──中国社会は今、数十年で最悪に近い経済状況に直面している。
政府にとって都合が悪い数字や統計は削除される一方で、スクリーンの上では「抗日」「国恥」が繰り返し上映される。

未来への希望が描けないとき、過去の怨念が動員される。「日本を憎め」という感情が、経済不安を覆い隠すためのガス抜きとして利用されているのだ。

さらに見逃せないのは、体系的な反日教育の存在だ。中国の義務教育では抗日戦争が繰り返し強調され、歴史教科書の大部分を占める。子どもたちは「中国は日本帝国主義に苦しめられたが、共産党の指導で勝利した」という物語を叩き込まれる。これによって「日本=敵」「共産党=守護者」という図式が刷り込まれるのである。

この手法は、中国の歴史における「王朝交代の正当化」と同じ構造を持つ。伝統的に新しい王朝は「前の王朝は腐敗し、民を苦しめた。だから天命は我々に移った」と宣伝し、自らの支配を正当化してきた。共産党もその系譜に立ち、「日本の暴走を止め、中国を救ったのは我々だ」というストーリーを国民に信じ込ませている。

つまり、中国共産党にとって反日は単なる感情操作ではなく、経済失政や政治的矛盾を覆い隠し、政権の存在意義を補強するための装置なのだ。

歴史は「政治の武器」か、それとも未来への教訓か

中国共産党にとって歴史は研究対象ではなく、政権の正当性を補強するための武器である。だから映画館は「正義の法廷」と化し、観客の唱和によって歴史が「確定」してしまう。しかもその「歴史」には、学術的根拠が薄いものや、政治的に都合よく脚色された事柄まで含まれている。事実とプロパガンダの境界が意図的に消され、やがて“歴史的事実”として固定化されてしまうのだ。

しかし本来、歴史の暗い出来事は未来をより良くするための反省材料であり、誤りを繰り返さないための知恵である。事実そのものは変えられなくても、その出来事の意味と教訓は再解釈を通じて未来志向へと昇華できるはずだ。

それをせずに、戦争を直接知らない世代にまで怨念を植え付けるのは、きわめて愚かなことだ。 本来なら記憶すべきは「二度と繰り返さないための教訓」なのに、そこで増幅されるのは「未来へ引き継がれる憎しみ」にすぎない。

過去を抱えて未来を築くのか、それとも過去に縛られて未来を捨てるのか──。その選択を誤れば、待っているのは進歩ではなく停滞、希望ではなく憎悪だ。

過去を消費する先に未来はあるか

映画『731』の大ヒットは、芸術や歴史研究の成果ではなく、歴史を政治的に消費し、大衆感情を動員する中国の姿勢を象徴している。
しかしその結果は、国民に健全な未来志向を与えるどころか、現実の暴力や排外主義を正当化し、社会の不安定さを増すだけだ。

経済は悪化し、若者は将来に希望を描けない。それでも政権が提供するのは「未来へのビジョン」ではなく、「過去の怨念」だ。過去に依存して民衆を団結させようとする国は、結局のところ未来を放棄しているに等しい。

本来、歴史とは未来を築くための反省材料であり、過ちを繰り返さないための教訓である。だが中国ではそれが怨念の燃料に変えられ、日本への敵意として噴き出している。
その構図こそが、いまの中国が「過去にしがみつくことでしか自らを支えられない国家」になりつつあることを示しているのではないか。

「国恥を忘れるな!」と叫ぶ声の大きさは、実は中国自身が未来を描けない弱さの裏返しかもしれない。過去をいくら消費しても、未来の地平は開けない。むしろ怨念の連鎖の果てに待っているのは、閉塞と孤立だろう。