中国 -100年遅れの帝国主義-

現代中国の本質と国際的影響を歴史的背景から読み解く、批判的視点の国際政治ブログ

強硬に見えて実は怯えている国 中国で大人が“上しか見ない”と文化はこうして死ぬ

―外交の墓穴、SNSの横並び、忠誠儀式、文化イベントの強制退場まで

すべては“恐怖が思考を支配する国”の必然

最近の中国という国を見ていると、あらゆる場面で同じ奇妙な構造が顔を出す。
外交の世界でも、SNSの世論空間でも、文化イベントでも、
まったく性質が異なるはずの領域が、なぜか同じ方向へ曲がっていく。

外交官は自らの主張を崩すような矛盾した発言を行い、
公人はSNSで同じ言葉を反復するように投稿し、
地方政府は行政ではなく忠誠儀式の量産に励み、
アーティスト出演中のステージですら、予定外という理由で中断される。

なぜこんな一貫した「歪み」が、異なる領域で同時に生じるのか。

答えは驚くほど単純である。
この国では、
“上の顔色だけを見る”
という行動原理が、大人たち全員に深く染み込んでいるからだ。

しかもそれは、単なる政治文化ではなく、
社会の価値観そのものを作る“教育装置”になっている。
つまり、この国に生きる子どもたちもまた、
大人が上を向いて生きる姿をそのまま学び、
同じ方向に育っていく
のである。

■外交——自分の主張を自ら崩す「墓穴外交」の裏にある構造

最近、中国外交部が発したのが
サンフランシスコ講和条約は不法かつ無効だ」
という主張である。

www.nikkei.com

強気な発言に聞こえるが、これは外交としては致命的な矛盾を含んでいる。
なぜなら、サンフランシスコ講和条約が無効なら、日本が台湾の領有権を放棄した根拠が薄れ、結果として “台湾は中国の一部” という中国の主張まで弱まってしまうからだ。

これは世界の外交専門家から見れば、
自分の足場を削る行為にほかならない。

ではなぜ続けるのか?
理由は単純で、
“強硬である”ことだけが安全だからである。

外交の“論理”や“整合性”よりも、
国内のナショナリズムに迎合し、
習近平政権に忠誠を示すほうが、
外交官にとってははるかに生存率が高い。

外交という国家の知性が試される場でさえ、
恐怖が判断を支配し、
その結果、墓穴が掘られていく。

SNS——公人の言論が横並びになるのは思想ではなく“恐怖”の反射

中国の官僚や政府系学者、国営メディア記者のSNSを見れば、
まるでテンプレートのように似た投稿が並ぶ。

同じタイミングで、
同じ方向に、
同じ単語を並べる。

これは「国家が直接指示している」からではない(もちろん暗黙の誘導はある)。
本質はもっと深い。

「この方向に発言しておけば絶対に叱られないし、忠誠を疑われない」という
“最小リスク行動”の結果である。

反日、反米、反台湾独立、習近平礼賛。
これらは政治的に完全な安全地帯であり、
そこに寄りかかっておけば、政治的危険はゼロになる。

逆に冷静な分析や中立的視点を提示すると、
“なぜお前だけ違うのか?”
と内部で疑われる恐れがある。

そのため、公人たちは自ら思考することをやめ、
最も安全な意見を模倣する。

SNSは思想空間ではなく、
“忠誠心確認装置” と化しているのである。

■地方政府の忠誠儀式が文化を殺す──大槻マキ強制退場事件に露呈した中国政治の病理

中国の地方政府を観察すると、行政とは到底呼べない奇妙な振る舞いが日常化している。
その背景には、“忠誠を可視化しなければ叱られる”という恐怖が行政全体を支配する構造があり、それが行政を儀式化し、地方政府を“中央へのアピール装置”へと変質させている。

この構造の病理が文化の現場にまで牙をむいたのが、大槻マキさんが上海で演奏中に突然ステージから強制退場させられた事件である。

news.yahoo.co.jp


歌の途中で止め、観客の前でアーティストを舞台裏に連れ去る――世界的にも極めて異例の措置だが、中国政治を理解すれば“偶然の暴走”ではない。現場の唯一の判断基準は、文化的価値でも観客の体験でもなく、予定外の展開=管理不能とみなされ、中央から叱責されるリスクなのである。

だから彼らが取る行動は、「予定通りに終わらせる」ことではない。

もっと前の段階で、“不測の事態が起こりうる場”そのものを切断するのが彼らの常套手段である。とくに現在のように、日中関係が政治・世論の両面で緊張している時期には、地方政府にとって日本人アーティストは“予測不能なリスク要因”として過剰に扱われる。

つまり、ステージがどれほど盛り上がっていようが、観客の熱気が最高潮に達していようが、
「日本人アーティストが長く舞台に立ち続ける=どんな“政治的解釈”をされるか分からない」
という恐怖の計算が働く。

その結果、
「時間に近づいたら即終了」どころか、「予定より早めに強制幕引き」が最も安全だと判断される。

地方政府は中央の空気を極端に敏感に読み取り、政治リスクに対して常に過剰反応する。
今の政治状況下では、日本人が熱狂的な拍手を受けるステージそのものが、“管理外の事態”として危険視されるのである。

こうして、アーティストとしての実力も、観客との一体感も、イベントとしての成功も、
すべては「日中関係」という巨大な政治外部環境によって否定される。

地方政府にとって最も重要なのは文化の成功ではなく、
「中央から絶対に叱られない安全運用」である以上、
リスクの“芽”は早めに摘み取られる――その巻き添えを食うのが、今回のような日本人アーティストなのだ。

■「上の顔色だけを見て生きる大人」は、子どもに何を残すのか

恐怖政治によって歪んだ大人たちの行動は、
外交や行政の現場にとどまらない。
もっと深いレベルで社会を侵食するのは、
子どもたちが“大人の背中”を見て育つという厳然たる事実だ。

上に逆らわず、
自分では判断せず、
責任を背負わず、
考えるよりも顔色をうかがう。

そのような“大人の演技”を毎日見せられていれば、
子どもたちは必然的に、
「人はこうやって生きるものだ」と理解してしまう。

しかも質が悪いのは、
こうした大人たちがただ臆病なのではなく、
臆病な自分を隠すために、態度だけは必要以上に強気に振る舞うという点だ。

恐怖に飲み込まれながら虚勢を張り、
自信がないのに尊大に見せ、
粛清を恐れながら他者には攻撃的になる。

こうした“態度だけ居丈高な大人”を量産する社会ほど、
子どもにとって不幸な環境はない。

なぜなら子どもは、
勇気ではなく虚勢を、
誠実ではなく忖度を、
判断ではなく服従を、
自由ではなく恐怖を

日常の中で学んでしまうからだ。

「どうすれば正しいか」ではなく、
「どうすれば怒られないか」で動く大人を見続ければ、
子どもも同じ価値観を自然に身につけてしまう。

こうして、
恐怖と従属の構造は、
まるで遺伝子のように世代を超えて連鎖していく。

外交の墓穴も、
SNSの横並びも、
地方政府の忠誠儀式も、
文化イベントの強制退場も、
そのすべては
“上を見てしか生きられない大人”が作った景色である。

そして、そんな大人の姿ほど、
子どもにとって“最悪の見本”はない。

■恐怖政治が作る社会は、未来への墓穴を掘り続ける

中国が外に向けて見せる強硬な姿勢は、
強さの証明ではまったくない。
むしろそれは、
内側に抱える恐怖を隠すための虚勢にすぎない。

外交は自滅のスコップを握り、
公人はSNSで忠誠を叫び、
地方政府は儀式を増やし続け、
文化イベントでさえ自由を奪われる。

いずれも理性の産物ではなく、
“怒られないためだけの行動”という哀しい反射だ。

そして最も深刻なのは、
そんな大人たちを見て、次の世代が育っていくことだ。

粛清に怯えながら態度だけ居丈高に振る舞う──
そんな矛盾に満ちた大人ほど、
子どもにとって“反面教師にすらならない悪影響”は他にない。

恐怖に支配された大人が作る社会は、
未来へ向かって深い墓穴を掘り続ける。
外交の失敗やイベントの混乱といった小さな問題では測れない、
もっと本質的な損失がそこにはある。

それは、
人間の精神の自由がどれほど奪われたか
という尺度で測られるものだ。

社会の未来を決めるのは、
軍事力でも、GDPでも、国家の威勢でもない。

大人たちが“誰の顔を見て生きているか”である。

そしてその顔が、
子どもではなく、社会でもなく、まして未来でもなく、
ただ“上だけ”を向いている社会に、
健全な未来など生まれるはずがない。