2025年10月24日、中国外務省の副報道局長が、高市首相の所信表明で言及された中国で中国を安全保障上の「深刻な懸念」に挙げたことについて、こう反論した。
「中国は平和と安全保障において、最も優れた実績を持つ大国だ。」
この宣言は、単なる外交上の言い分ではなく、国家的アイデンティティの宣言である。
“平和大国”と自称する国が、本当に「平和と安全保障」で実績を積んでいるならば、それは誇るに値する。
ただし――まともな感覚を持つ人間ならば、この言葉を聞いて「本当か?」と疑問を抱く。
なぜなら、実績の中身が明示されず、むしろその前提にある行為が“平和的”とは言い難いからだ。
言葉だけで勝つ構図
中国が「我が国は平和と安全保障において優れた実績を持つ」と言い放つ背景には、
「言葉で勝てば、現実も勝ちになる」という信念がある。
たとえば中国政府はしばしば、
「中国は戦争を起こしたことがない」
「中国の発展は世界の平和を支えている」
と繰り返し主張している(出典:外交部定例会見ほか)。
だが実際には、南シナ海での人工島建設や台湾海峡での軍事演習など、
“平和”とはほど遠い現実がある。
それでも彼らは、“発言を繰り返すこと”で真実を上書きしようとする。
つまり、彼らにとって「平和」とは実態ではなく発声の回数なのだ。
何度も言えば、それが事実になる。
批判を受ければ「あなたたちの理解が間違っている」と切り返す。
これが、中国式の“言葉による勝利”である。
言葉を繰り返し、現実をねじ伏せ、最終的に世界が慣れてしまう。
“言葉の量が真実を決める”という構図の中では、
もはや論理も証拠も関係ない。
だからこそ、彼らの言葉は時に空虚でも強い。
言葉が武器であり、現実を作る手段だからだ。
言葉を支配した者が、現実を支配する。
この信念のもとに、中国は“平和実績”という言葉を掲げている。
実績の中身を問う――和平と進出の重なり
中国が言う「平和と安全保障の実績」とは、一体何を指しているのか。
“平和”と聞けば、多くの国は「争いを避け、緊張を和らげる努力」を思い浮かべる。
だが、中国の言う“平和”は少し違う。
それは、自国の影響力を広げた範囲のことを指すのだ。
たとえば南シナ海。
中国は「防衛のため」と称して岩礁を埋め立て、
滑走路や軍事施設を次々と建設してきた。
「平和的な開発だ」と説明するが、
そこに他国の船は近づけず、結果的には支配の既成事実が作られていく。
台湾周辺でも同じ構図だ。
「挑発に対する正当な対応」と言いながら、
毎日のように軍機が海峡を飛び交う。
緊張を高めているのはどちらか――その答えは明白だ。
それでも中国は胸を張って言う。
「我々は地域の安定を守っている」と。
つまり彼らにとっての“平和”とは、
「自分が支配している状態を壊さないこと」なのだ。
そしてもう一方で、中国は「和平の仲介者」を名乗る。
ウクライナでは停戦案を提示し、
中東ではイランとサウジの和解を仲介したと誇示する。
軍事的に圧力をかけながら、同時に“平和の調停者”を演じる。
この二重構造が、中国外交の最大の特徴である。
要するに――
中国の「平和実績」とは、
「戦わずして進出した記録」のことだ。
軍事衝突を起こさずに、
海を、資源を、国際世論を少しずつ手に入れていく。
その積み上げが「平和的発展」という名の“成果”になる。
こうして“平和”は、目的ではなく手段に変わる。
「平和のため」と言えば、どんな拡張も正当化できる。
だからこそ、中国の言う“平和”は、
静かに進む戦争の別の名前なのだ。
“まともな人”には説明不能な論理
このような構図を、普通の倫理感・論理構成で説明しろという方が無理というものだ。
“平和”を語る国家が“進出”を続ける。
“実績”を誇示しながら“疑問”を招く。
この矛盾を理解し、さらにそれを国家の中心宣言とするには、「言葉を現実より優先させる」思考回路が必要になる。
その意味で、「我が国は平和と安全保障において優れた実績を持つ」という発言を真に信じて唱えられる人たちは、
言葉を武器とし、現実をその言葉に合わせることを信じる人たちである。
一般的な“まともな人”の感覚とは、距離がある。
言葉も形式も、支配の技術
中国の外交は、言葉だけで動いているわけではない。
その背後には、形式(かたち)を操る技術がある。
今回の高市首相就任に対しての「祝電未公表」もその一つだ。
祝電とは単なる挨拶文ではなく、国際社会に「関係は正常である」と示す儀礼的サインだ。
それを出さない、あるいは出しても発表しない――。
この“沈黙”は、言葉より雄弁である。
相手に直接敵意を見せずに、関係の温度を下げる外交的ジェスチャーなのだ。
中国はこうした“形式の操作”を実に巧みに使う。
たとえば、
・首脳会談の写真を意図的に掲載しない
・国旗の並び順を微妙に変える
・共同声明の文言を一部削除する
――いずれも、表面的には些細なことだが、
その一つひとつが「誰が上か」「どちらが主導か」を暗に示すメッセージになる。
言葉が真実を語らなくても、形式が“異常”を演出すれば、
見る者は“何かが起きている”と感じる。
そしてその違和感が、言葉の主導権を握る側に有利に働く。
形式が感情を動かし、言葉が理屈を整える。
この二つを同時に支配すれば、相手の反論は「形式にこめられた意味」に飲み込まれていく。
言葉と形式の連携は、
「語ること」と「演じること」の両面を押さえる戦略である。
中国外交はしばしば“台本のある演劇”にたとえられるが、
実際その構造は舞台に近い。
台詞(=言葉)をどう言うかよりも、
照明(=形式)をどう当てるかで、観客の印象が決まる。
そして、その照明を制するのが「形式の力」だ。
祝電を出すか出さないか、会見で握手を撮らせるか撮らせないか。
これらはすべて、外交における演出であり、支配の技術である。
中国は言葉の上でも現実の上でも主導権を握りたがる。
だからこそ、形式の一つひとつまでが計算されている。
言葉で相手をいなし、形式で空気を支配する。
この二重の支配構造こそ、中国が最も得意とする「沈黙の戦略」なのだ。
言葉が現実をねじ曲げるとき
「我が国は平和と安全保障において優れた実績を持つ」――
この一文を、彼らは誇らしげに口にする。
だが、それは現実の報告ではなく、現実の“指示書”だ。
言葉が先にあり、現実がそれに従う。
だからこそ、中国では“言葉を制する者”が国家を制する。
彼らにとって、真実とは出来事の記録ではなく、
「勝った者が語る物語」である。
今は空虚に見える宣言でも、
もし戦争や外交競争で勝てば――
その言葉は「予言」ではなく「実績」として歴史に刻まれる。
そして、それが“正義”になる。
ここにあるのは、力が言葉を正当化する世界だ。
その世界では、「嘘」も勝てば「真実」に変わる。
“平和大国”という言葉も、繰り返され、勝利で裏付けられれば、
やがて国際社会がそれを信じてしまうかもしれない。
日本を含む民主国家が学ぶべきは、この「言葉の戦争」を軽視しないことだ。
中国は銃ではなく、語彙で戦っている。
相手の辞書を塗り替え、意味の支配権を握る。
それこそが、最も静かで、最も効果的な戦争の形だ。
言葉はただの飾りではない。
それは、国家が現実を支配するための“もう一つの戦場”なのだ。